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2011年3月28日月曜日

*** 世田谷国分寺崖線ー邸宅の手打ち蕎麦 ***


国 分 寺 崖 線

国分寺崖線は、およそ10数万年前に武蔵野台地が
多摩川の水流により浸食されて形成されたと考えられている
高低差10~20mの東西30kmに連なる河岸段丘であります。
その西端は立川市砂町9番近辺から始まり
国分寺市東恋ヶ窪の日立研究所周辺を水源として発する
野川とその支流入間川・仙川に沿うように世田谷区岡本近辺まで連なり
そこから丸子川・六郷用水に接し、大田区西嶺町辺りで自然消滅します。

 
 

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岡本周辺の国分寺崖線

過っては樹林帯で面々と覆われ、崖下には湧水が多く見られ
湿地帯を擁し、野川・入間川・仙川・六郷用水を潤し
農地・樹木・植物・昆虫・野鳥・小動物等々を
を育んだ住民の重要な生活空間の自然地でありましたが!!

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東名高速道路の陸橋より、上り線側を望む大蔵4丁目
厚生年金事業振興団の運営するスポーツ施設を
世田谷区が購入した大蔵第二運動場辺り
崖の開発がどうにか免れた地域です。

下り線側を望む岡本3丁目
1980年代の土地バブルの乱開発により
  今は、連なるのは階段状のマンション。

岡本3丁目、日産ドライビング・カレッジからの眺め
見るも無残な姿です。
日当たり良し・眺望良し・価格安し、地震は???
崖下の平坦地は多くが湧水を利用した” 田んぼ ” でした。

上記写真の坂を挟んだ反対側です。
遅まきながら世田谷区は条例で規制してますから
今後はこの様な姿を見ることは無いでしょう?

丸子川親水公園岡本民家園
世田谷区が保護林として管理している地域です。

次太夫堀に覆いかぶさる雑木林は
手付かずの静嘉堂文庫・美術館の森です。
次はこの次太夫堀について、述べさせていただきます。


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次 太 夫 堀 ( 丸 子 川 )

1590年7月 『 小田原の役 』 において秀吉は関東を支配していた
北条氏を滅ぼした後、三河国領主、家康に関東への領地替えを命じ
1590年8月に家康は、江戸城に入城し居城としました。
広大な関東平野を手中に収めはしたが、それと共に家臣も増大し
彼等を養う責に迫られ、未開発地の多い新領地内に田畑開発が急務と
 ” 穀倉地化プラン ” を立案、その内の一案に用水奉行 『 小泉次太夫 』 を
 登用し、六郷領(大田区)に灌漑用水路の開削を命じました。
彼は1597年から15年の歳月を費やし
現在の狛江市・中和泉4丁目辺りの多摩川から取水し
猪方ー>岩戸ー>世田谷区・喜多見ー>大蔵ー>岡本と通し
岡本からは国分寺崖線際に沿わせ、東横線・多摩川駅付近では
分水点を設け、右岸側は多摩川に流入させました。
この約12Kmを次太夫堀と称し左岸側の分水は公称・六郷用水に導き
大田区・矢口ー>蒲田ー>糀谷ー>萩中ー>羽田方面へ
多数の分水をし全長約23Kmに及ぶ用水路を貫通させました。

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現在は ” 次太夫堀 ” の愛称は公称・丸子川と変わり
東名高速道路下の崖線の湧水を源とし
岡本から東横線・多摩川駅近辺で
多摩川に流れ込む間が姿を変えて残しております。

30m程U字溝を下り、此処で湧水は暗渠に落ち込みます。

わずかに丸子川だけが、この通路の下
暗渠で導水されていきます。
真ん中辺りの直線の壁は東名高速道路です。

これは岡本の崖線の上からの二子玉川方面
過っては一面 『 田んぼ 』 で
多摩川の水の流れまでもが望めた所です。

コチラは取水地の狛江市・中和泉4丁目方面です。
1960年代の高度経済成長期には両方面共に急速に宅地化され
それと共に丸子川・六郷用水は行政に格好のインフラ整備の的を与え
下水道や道路に転用・埋め立てられ、殆どが姿を消したのです。
そうした背景により、取水は廃止され350余年に渡る役目を終えたのです。
 
仙川の浄水建屋です。
此処で取水浄水された水は約2.2Km先の
首都高速が246号線と分かれ矢沢川の上を通る辺り
用賀で放水され、等々力渓谷の景観を保っております。

暗渠から出てきた付近です。

この辺りから下山橋のおよそ600mは
世田谷区が過っての ” 次太夫堀 ” の趣を復元し
丸子川親水公園岡本民家園と命名し保存しています。

丸子川親水公園岡本民家園

瀬田村の旧長崎家住宅主屋を移築したものです。
 
 
 
 
この八幡橋を上り詰めると静嘉堂裏門に行きます。
 

国分寺崖線が味わえる自然歩道です。
正面が裏門です。

この八幡橋から下山橋のおよそ200m左側は
静嘉堂文庫美術館の森林です。

静嘉堂文庫美術館の森林からの湧水です。

川にせり出している遊歩道

再び湧水です。
勝手は沢山あり豊富な水量が六郷用水を潤し
農地・樹木・植物・昆虫・野鳥・小動物等々を
育んできたのです。

この清き湧き水が ” ホタル ” を育て
夏の夜には、いたる所で飛び舞っていたのです。

谷戸川との合流地点です。

この下山橋までが次太夫堀の再現区間
丸子川親水公園です。
左手に2分程、進みますと静嘉堂文庫美術館です。
行ってみましょう!!


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静 嘉 堂 文 庫 美 術 館
 東京都選定歴史建造物

三菱第二代社長岩崎弥之助(1851~1908)と
第四代社長小弥太(1878~1945)の父子二代で
蒐集した国宝7点、重要文化財83点を含む
およそ20万冊の古典書と8500点の
東洋美術品を所蔵しております。
古典書は研究者のみが閲覧でき
美術品は年5~6回、一般公開されております。
私が訪れた時は 『 岩崎家の人形展 』 拝観しました。

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正門です。


鬱蒼とした雑木林の中を登って行きます。

これほどに近い所に!まるで深い森を歩いている雰囲気です。

1924年4月(大正13年)小弥太が父の蒐集した
日本や中国の貴重な古典籍を永久に保存し
更に研究者に公開することを目的に建築しました。

設計者は桜井小太郎(1870~1953)英国で建築を学び
英国風の落ち着いた品格のあるデザインを得意としたそうです。

小弥太も1930年(明治33年)英国に留学し
ケンブリッジ大を卒業した英国通であり
両者の呼吸が一致した19世紀後半の
イギリスの”アーツ・アンド・クラフト”運動の
雰囲気を持っている作品と言われております。

これは岩崎弥之助が死去した時、 岩崎家の納骨堂として
1910年(明治43年)に小弥太によって建てられました。

設計者はジョサイア・コンドル(Josiah Conder 1852~1920)
お雇い外国人設計家と来日し、政府関係の建物を設計したり
大学の教授として辰野金吾ら創生期の日本人建築家を育成し
明治以後の日本建築界の基礎を築いた人物です。

ジョサイア・コンドルの他の作品は
ニコライ堂・旧古川庭園・清泉女子大学本館があります。
この二頭の動物は何なんでしょうか?


南側斜面の庭園

園内には湧水地点が数箇所あり
いずれも次太夫堀に流れています。
次は気になるお向かいさんです。


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旧 小 坂 邸
世田谷区指定有形文化財
( 瀬田4丁目広場 )

1937年(昭和12年)に建てられた
大正~昭和前期の民家風和風住宅で
長野県長野市出身の政治家・財界人で
信濃毎日新聞・信越化学・中部電力各社長
及び衆議院を勤めました
小坂順造(1881~1960)氏の東京の別宅でした。
元外務大臣の小坂善太郎は長男
元運輸大臣の小坂徳三郎は三男
元文部科学大臣・現参議院幹事長の小坂憲次は孫にあたります。
” 現在は瀬田4丁目広場 ” として開放されており
『 財団法人・世田谷トラストまちづくり 』 が管理しています。

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静嘉堂正門前の坂下の右側からの裏門入り口付近です。

ここでも湧水があり、次太夫堀に流れています。

財団法人世田谷トラスト協会により
瀬田4丁目広場として保存されています。

此処から向かいの静嘉堂のコースは
近隣の方々の健康散歩コースであり
また、自然の四季折々の景観が楽しめます。
 

現在は耐震工事中のため、屋敷内に入ることが出来ません。

左側が正門入り口、右側部分は日産コンツェルン
現在の日産・日立グループの創始者
鮎川義介(18880~1967)の住居地でありました。

住居地跡に沿って登ぼって行くと
”マンション・多摩川テラス”の奥に!!

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武 家 屋 敷 門
世田谷区指定有形文化財

岡山藩主池田家の筆頭家老を勤めた伊木家の
岡山後楽園下手の旭川の中洲にあった下屋敷門だったのですが
旭川の河川改修により水没する事になり
鮎川義助氏が偲び難く思い
茶室と共に譲り受け千代田区紀尾井町の自宅を経て
1962年(昭和38年)この地の道路側に自宅門として再移築しました。 
しかし、1978年(昭和53年)マンション・多摩川テラス
の建築に際し、再々移築され此処にあります。

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アラ不思議、所有者は ” 多摩川テラス自冶 会 ” です。


全長20.9m,、奥行き6.7m、建築様式から
江戸中期、1750年前後の建造と推定されています。

此処から静嘉堂の所までが
鮎川義介の住居地だったのです!!!

更に道路沿いを進みますと、1分ほどで
仲代達也主宰の無名塾です。

この坂は”無名坂”と名付けられています。


平坦地を再び1分ほど進みますと
『 ドミニコ学園 』 の向かいに
開放的なブルーの大きな窓の瀟洒な建物

覗いてみると ”O P E N ” の板札が!!!

思い切って入ってみました。

ウッド・デッキ・スタイルです。
 


ナント・ナント石臼挽き手打ち更科蕎麦
昼食に食べちゃいました。

後日、近隣なので再び来ちゃいました。
今度は、3時のオヤツに食べちゃいました。
メニューは、ざる蕎麦と
ケーキ・コーヒー・リーフティー・ビールです。

  
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