2023年7月25日火曜日

** Jul-2023;ジャズピアノの詩人 『 BILL EVANS 』**

  

*** ビルエバンスの歴史 ***


1.誕生

ビル·エヴァンスは1929年8月16日
両親が旧ソ蓮・ウクライナ出身で
米国生の母メアリーと
イギリス・ウエールズ生まれの
父ハリー・エバンス・シニアとの間に
兄ハリー・エバンス・ジュニアの2歳下の次男として
ニューヨーク州に隣接するニュージャージー州の
ユニオン群、現在はニューヨーク大都市圏に属し
ニューヨークへ1時間程の
プレーンフィールド町で生まれました。
 
2.幼年期
 
父は祖父のゴルフ場経営の下で働き
二人の息子にピアノ及び多くの楽器を
家庭教師に学ばせていた事を考えると
兄弟は相当裕福な家庭で何不自由なく
幼児期を過ごした事が窺い知れます。
しかし
父の過度の飲酒・ギャンブルそして暴力に耐えかね
母メアリーは、息子二人を連れ度々
近隣のサマセット群サマーヴィル町に住む
妹の家族の家にしばし滞在しています。
そのような環境を危惧し
教会音楽に親しんでいた音楽好きの母の意向で
6歳の兄ハリーにピアノを
家庭教師に習わせ始めます。
一方ビルは
兄の傍らで日々熱心に聞き入る間に
音楽の才能が芽生えたのでしょう
聴き覚え戯れにピアノを奏でる事に満足できず
正式なピアノ学習を懇願しますが
余りにも幼かったので兄と同様に
6歳からと説き明かされ
やがて、約束の年齢に達した時に
慕い憧れる兄と共にピアノを習い
後に、ヴァイオリン、フルート、ピッコロ
と弦楽器・管楽器をも学びます。
このことが他楽器とピアノの関係
ピアノ理念が後のインタプレイ理論に
反映される礎になったのではと考えられます。

1936年頃7歳



 
3.少年期
 
12歳頃、兄がラジオを通してジャズに興味を持ち
クラッシック学習の合間に演奏するようになると
憧れの兄に追随し、ラジオと兄に学び
一緒に演奏し楽しむようになります。 
そして、ビル13歳時に
兄がトランペット奏者として参加していた
リハーサルバンドに
病気でピアノ奏者が中途で離れた為
急遽代役とし兄の推薦で参加し
大役を果たし、周囲の賞賛を浴びます。  
この事を指しているのでしょうか
後年、兄との会談の中で
『 私は13歳からプロだった 』
と述べています。
 
兄ハリーとの会談、下記をクリックーーー>
 
その後、高校に進学するとジャズ活動は
より積極的にリーダーとなり
近隣の友人達とコンボを組み
度々パーティーや結婚式等で演奏し
お小遣いを得る事に夢中過ぎて
学業が疎かになった期間もあったようですが
1946年5月、高校を卒業します。

4.大学期
 
1946年9月、ビルは
当時、進歩的な音楽教育で知られてた
サウスイースタン・ルイジアナ大学に
フルートの能力も長けていたので
ピアノよりも競争率の低かった
フルート専攻の奨学金を得て入学します。
そして、間もなくピアノの授業でピアノを演奏し  
その才能を高く評価した教授に
ピアノ科専攻を強く進められ
フルート科からピアノ科に変更します。
また、在学中も学内外の
ジャズバンド、コンボ、セッション等で
ジャズ・アルバイトに精を出し
ジャズ友の知己を広めると共に
学業にも励み
1950年5月に
ピアノ科の首席演奏者として
ベートーベンのピアノ協奏曲第3番
を演奏し卒業します。

学生? 


 
5.青年期
 
卒業後の進路については
クラッシック?ジャズ?
選択に迷いますが
とりあえず感で卒業直後に学生時代に知り会った
とトリオを結成し、ニューヨークに拠点を構え
プロモーション活動を行いますが失敗に終わり
それぞろの方向に進み
その後二人は、先にジャズ界で名を馳せます。
片やビルは
1950年7月シカゴに拠点を置く
ハービー・フィールズ・オーケストラ
のセクストに加入し、ツアー活動中の
1951年5月に召集を受け
シカゴ近郊フォートシェリダン地区の
フィフス米国陸軍バンドに配属され
ピッコロ、フルート、ピアノ
を担当することになります。
更に、夜には頻繁に抜け出し
シカゴのクラブで
セッションに参加したりします。
また、キャンプのラジオ局で
ジャズ・プログラムを任され
構成する中で時折シカゴ・クラブを訪れ取材時に
ジャズ歌手、ルーシー・リードに出会い
以後、夜毎にシカゴ・クラブに出向き
専属ピアニストがいなかったこともあり
歌伴を努め、友好を深めたようです。
1953年には兄の長女誕生を祝い
Waltz for Debby”
を作曲し姪デビーに贈ったと言われています。
この頃から認知能力向上を目的とする
医療医薬品スマートドラッグを使い始め
マリファナの吸引へとエスカレートしていき
ついに1954年1月、軍にその事が発覚し
厳しく”社会的順応性の欠如”の指摘・批判を受け
除隊させられ、自己批判すると共に、反省し
両親と暮らしながら断薬治療を進めます。
更に、音楽的技術をより高める為に
スタジオを建て、グランドピアノを購入し
練習する日々を送りながら、自己追求の果てに
ジャズ界で生きる決意をします。

*** ルーシー ・ リード ***
1921年 1 月 14 日
ウィスコンシン州マーシュフィールに生まれ
ミネソタ州の高校在学中に
ポップス・シンガーとして活動を開始しますが
ジャズ・ドラマーである夫の
 Joe DeRidder
との出会いによってジャズを歌い始めます。
しかし、第二次世界大戦で夫を失い
一時は引退しますが、カムバックし
ウディ・ハーマやチャーリー・ヴェンチュラ楽団
に在籍した後
ジョニー・フリーゴ(b)とディック・マルクス(ds)
と組んでシカゴを拠点に活動しました。
因みに
彼女の懇意の友人の夫がジョージ・ラッセルでした。

 34歳頃のルーシー・リード

 
6・Start to Jazz Life
 
進路を定めたビルは早速
居をニューヨークに移し
1955年7月にマネス・カレッジ大学院
のプロ作曲家三ヶ月コースに学びます。
その合間を縫い
ニューヨーク近辺のジャズ・クラブに
モダン・ジャズ・カルテット、マイルス・デイビス
セロニャス・モンク、ジョージ・シアリング等々の
当時の一流ジャズマンの演奏を聴き歩き
顔見知りにもなり 
ジャズへの情熱を確信していきます。
更に、8月13日~15日に
軍隊時代の気心の知れた
智的美人歌手ルーシー・リードの要請を受け
編曲を兼ねたバックバンドで初レコーディング

タイトル = THE SINGING REED
サブタイトル = LUCY REED with Bill Evans
 
それがこれですーーー>
4.It's All Right With Me
6.Lazy Afternoon,
7.Flying Down To Rio
の3 曲を除く13 曲がビル・エヴァンスの演奏です。
13~16はCD化された時に追加。

そこに ” 幸運の女神様 ” が招待した
学生時代から懇意にしている友人の夫
リディアン・クロマティック・コンセプト
 
"リディア"とは前7世紀頃に現トルコ内で栄えた国家。
の独自理論を1953年に唱えた
を紹介されます。
その時
ラッセルは彼の独自音楽理論の片鱗を
ビルに聴き分け、感激し
即座に自宅に連れ帰り
改めてビルにピアノ演奏を促し
ビルこそ、ラッセル理論の実践者だ!
と確認したラッセルはギリシャ時代の
宗教音楽に遡る ” リディアン・モード ” 理論を展開します。
ビルもその理論には精通・熟知していたので
議論は弾み、ジャズへの導入を互いに理解し合い
親交を深めて行く因となり
翌年予定のラッセルのレコーディングの演奏に
出演することを確約します。
この出会いが、後に
ビルの躍進を早めることになります。
その後、大学時代の校外のジャズ友であった
マンデル・ロウが所属する
ジェリー・ワルド・オーケストラ
に加わり演奏、レコーディングをも行い
また、コンボにも参加し
ポール・モチアンもメンバーで
グリニッジビレッジの諸クラブで活動します。
1956年3月31日
ビルは過っての約束通り
”  ジョージ・ラッセル ”  がリーダーの
ビル、初コンボでのレコーディングに参加します。
メンバーにはポール・モチアン
それにテディー・コティックも含まれていました。

それがコレです。
タイトル=THE JAZZ WORKSHOP 

録音後は
ジェリー・ワルド・オーケストラ
に戻ると共に
隣町に住んでいた
トニー・スコット・オーケストラ
にも加わり活動します。
そんな中
マンデル・ロウ
が若手ジャズ有望新人を探していた
設立間も無い
リバーサイドのプロデューサー
オリン・キュープニュース
にビルのコンボ演奏テープを電話越に聴かせ
彼はビルの技法・能力が秀でてる事を察知し
ビルにリーダーとしての録音を強く勧めます。
しかし
①リーダーとしての域に達していない。
②技術が未熟である。
ことを理由に拒み続けますが
キュープニュースの ” 全てを任す ”
他数案を示す執拗な誘いを
 ” シブシブ ” 受け入れ、トリオを選択し
ラッセルの録音時メンバー
ポール・モチアン と テディー・コティック
を招き
1956年9月18日・27日
ビル27歳、初リーダーによる録音が
ニューヨークの
Reeves Sound Studios
で行われました。

お聴きくださいーーー>
タイトル = Bill Evans New Jazz Concepetion

後に、キュープニュースは
『 販売枚数は800枚だった。』
『 レコード化を求める奴を断ったことはあるが
 断られ、粘り強く説得したのは、ビル以外いなかった。』
と延べています。

7.躍進
初リーダー録音後
トニー・スコットや
高校時代の校外・隣町のジャズ友
ドン・エリオット
等のバンドで精力的に活動中
ビルは再びジョージ・ラッセルに呼ばれます。
それは
1957年6月
ラッセルが
”ブランダイス大学創造的芸術祭”
にジャズ作曲家3人、クラシック作曲家3人
6音楽家の一人に大学より指名され
彼に与えられた”第三の流れ”の理念に基づく
実証的作品の1曲を要請され
5分15秒の内、三分の一のソロを
ビルの卓越したクラッシック技術と知識を
想定して作曲したからです。
そして、フェステバル前日の演奏会が
テレビで放映され
ビルの名を知らしめると友に
批評家にも注目され始めます。

それがこれです。
タイトル=All About Rosie
1957年6月10日 NewYork 録音
  
 
 
 
のジャケットは異色のものでした。マイルズ、ジョージ・シアリング、アーマッド・ジャマル、キャノンボール・アダレイら、錚々たる顔ぶれのサイン入りの絶賛の言葉が大きく記されています。たとえばマイルズは、「確かにビル・エヴァンスからは、たくさん学んだ。彼は、そう弾かれるべき弾き方でピアノを弾いている。」と絶賛しています。(残念ながら、オリジナルジャケット

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